暴れん坊将軍

主題歌「 utopia 








第一部
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第二部
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邂逅編

主題歌「 I Want to Live 


只今、執筆中・・・

曲 提供:Satoru Kanatani氏


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時代劇いろいろ
 「水戸黄門」「鬼平犯科帳」「暴れん坊将軍」「銭形平次」「遠山の金さん」は有名ドコロだろう
これを五代時代劇と呼ぶ(今、つけた)

 れもんは時代劇ファンである。
ぼーっと見ているだけで、まるで洗脳されているかのように、名台詞が知らない間に頭に入っていく。
不思議だ・・・(悦)

 最近は時代劇も進化しはじめ、TV時代劇はどれも似たようなカメラワークだったが、最近の「剣客商売」「八丁堀の七人」の映像は、映画みたいにとても綺麗だ。 魅力的なので、老若男女問わず、普及するだろう


 とにかく、れもんはドリーマーなので、一番好きな「暴れん坊将軍」にトライしてみたい。
特に、加納五郎左衛門にジジイ萌え(笑)
だがあまりにジイちゃんなので、狙いは新之助こと吉宗にしておくのが無難。
 巷でよく見かける「新撰組」はまたの機会にやりたいが、時代背景のチェックだけで果てるだろう。
暴れん坊将軍の設定だけで、疲れてるのだから、無謀な挑戦だ。
あぁ・・・いつかは・・・、と期待だけ胸膨らませる乙女心ってやつである。


登場人物(シリーズごちゃまぜにして、設定を推測)

徳田新之助=徳川吉宗

貧乏旗本の三男坊と偽っている徳川幕府八代将軍。
め組の居候なのだが、それっていつもお城に居ないってことで・・・それでいいのか将軍サマ!?
正体を知る者は、大岡と爺と栄五郎と辰五郎、それと山田朝右衛門。
色恋には疎いらしく、人に言われるまで気づかない。
女よりも政の方が大事という信念を持っているようだ。
弓道で体を鍛えているときは、いつも傍らに爺と大岡越前とお庭番がいる。
[お由利の方(法名:淨円院)](吉宗の生みの母、向島の清涼庵で暮らしている)
[鶴姫](上様の正室候補)

有馬彦右衛門

将軍御側御用取次役。「爺」と呼ばれ、吉宗から亡き父以上に慕われている。
吉宗の市中徘徊を、一大事があっては、と気に入っていない。
頑固爺だが親しみやすい人物で、吉宗がかわいくて仕方が無い。
たまに、新之助の叔父として、め組に出入りしている。
[田之倉孫兵衛](将軍御側御用取次役)
[政太郎](田之倉孫兵衛の孫)
[加納五郎左衛門](将軍御側御用取次役)

加納五郎左衛門

元将軍御側御用取次役。「爺」と呼ばれる。幼少の頃から吉宗に仕える守り役。
吉宗の市中徘徊の時は、山積みの仕事を残されたまま、逃げられる
一緒に行きたくても行けず、カンカンになりながら帰りを待っている。
とぼけた爺で親しみやすく、隠居生活(?)を送っているので出番はない。
[おてつ](奉公人、五郎左をジジイ扱い)
[お末](奉公人、おてつ同様態度がでかい、新之助が好きでおまちと張り合う)

大岡忠相

南町奉行・大岡越前守忠相、寡婦暮らし。
吉宗とは、紀州時代からの付き合い。
[風間修理](北町奉行、あまり出番はない)
[関前朝之介](南町奉行同心)

将軍家御庭番

徳川八代将軍吉宗が、紀州から連れてきた、馬周り役など17家をお庭番として定めたのが始まりとされ、17名いるらしい。
二人一組だとしたら、ひとり余るのだが、それは謎。
身分は「御広敷伊賀者(おひろしきいがもの)」という。
[助八(根来者)、おその(根来者)、大月半蔵(伊賀者)]
[才蔵、さぎり]、[左源太、疾風]、[才三、梢]、[十文字隼人、あざみ]

花川戸辰五郎

江戸町火消しの総元締め(元いろは四十八組のめ組の頭)で、今は浅草で口入れ屋稼業。
徳田新之助が将軍であることを知っている人物で、吉宗の心の師ともいうべき存在。
[おさい](女房、おかみさんと呼ばれている)
[おまち](妹、新之助を好き)
[源三(元小頭)、常、鉄、久](配下)

栄五郎

火消し「め組」の頭。頭になる前の名前は、栄吉。
[峰次](め組の小頭、お杏が好きで、新之助をライバル視)
[歳松、仙太](め組の配下)
[お杏](妹、宮大工の元夫は他界、新之助に惹かれている)
[もも](お杏の娘、この子の成長は新之助がめ組に来る楽しみのひとつ)

医師

[お葉](小石川養生所で働く医師)
[半次郎](お葉の兄、元め組の小頭)
[足立玄石](小石川養生所の医師。お葉の頼みの師、難しい手術に慣れている)

山田朝右衛門

上様から直々に「介錯人」に任命された人物。
諸大名から「新刀の試し切り」にと請われて罪人の首をはねるのを生業としている。
彼の身分は浪人であり、幕臣ではない。
吉宗の知り合いで、忠相とも顔見知り。
[菊]娘

徳川宗春

宗春公、と呼ばれ、吉宗のライバルと位置付られている。尾張七代藩主。
宗春自身は、ちっとも登場しない事から、宗春は悪役ではないと推測。
宗春を利用して権力を握りろうとする悪人が、よく成敗されている。
吉宗は、将軍の座を譲ってもいい、と考えているが・・・。
家臣からも信頼されていない可哀想なお人。将軍たる器はなさそうだ。


加納五郎左衛門が一番好きです。
役者効果ってやつなのかな・・・。



時代背景
 徳川吉宗 生没年 1684−1751。今から約300年ほど前の江戸時代のお話。
 徳川御三家といえば、尾張、紀伊、水戸、である。吉宗は紀伊家出身。

 暴れん坊将軍こと徳川吉宗は、貞享元年(1684)十月、徳川御三家のひとつ、紀州藩の第二代藩主徳川光貞の四男として生まれる。 母はお由利の方で、若山吹上屋敷で生まれてすぐ、岡の宮(刺田比古神社)の神主の手を経て、家臣である加納五郎左衛門の屋敷に届けられ、5歳まで育てられる。 元服時は得田新之助という名前。幼名時は源六。 12才で初めて江戸へ行き、将軍綱吉から、越前(福井県)に三万石の領地を与えられる。 三人の兄が次々早死にし、若干二一才で第五代藩主となります。
 当時、藩には10万両ほどの借金があり、自ら生活をきりつめる倹約政策で財政を立て直した。 その政治的手腕が認められた彼は、7代将軍の家継が幼少で死んだあとをうけて、1716年に江戸幕府第8代征夷大将軍に就任することになる。 加納久通・有馬氏倫らを、新設した側御用取次役(実質的に側用人)に任命。
 また、徳川八代将軍として享保の改革を断行。 米将軍とも呼ばれた。
 身長は六尺(約180センチ)で鷹狩りが好みで、酒も本数を決めて嗜んだ。 家康の命日にちなんで毎年1回江戸城で御城碁があったというから、多分、囲碁が打てるはず。 徳川家康が草津の湯を運んで入浴したいと希望したところから始まり、吉宗なども、今の湯畑にある「お汲み上げ湯の碑」あたりから湯を汲み上げ江戸まで運んだという。草津の名前が全国的に知れ渡った。

 将軍に就任したとき、またもや財政はかなり厳しかったらしい。 幼少時を質素に暮らしたからか、将軍になってもその姿勢は反映され、自ら倹約に努めた。 大奥女中も美女50人を差し出させ、美女であれば嫁のもらい手もあろうと皆に暇をとらせたという。今でいうリストラ。
 享保の改革(倹約令、年貢増徴、目安箱、公事方御定書、米価の安定)によって、徐々に好転した。 その間、江戸の人口が100万近くになっていたため、「いろは四十七組」の町火消を設置し、防火対策をする。 また目安箱の訴えによって、小石川養生所を設置し、極貧の病人を収容し無料で治療を行った。
小石川にしたのは、麻生薬草園を小石川に移したからだろう。
 大岡越前守忠相は、山田町奉行(伊勢・志摩)時代に吉宗 に見込まれ、江戸に戻り御普請奉行を務めたあと、41歳で江戸町奉行に任命された。 この年、吉宗が将軍の座についてから1年ほどである。将軍になる前から懇意な仲だったと考えていいだろう。

 吉宗と大岡忠相にはこんなエピソードがある。
 当時、山田奉行所の治める伊勢の国と紀州藩とは、宮川を境として接していた。 そのため、境界をめぐる争いが頻繁に起こっていたらしい。 代々の奉行は徳川御三家の一つである紀州藩に遠慮して、明確な判定を下さなかった。つまり見て見ぬ振りしていた。 そこに第18代の山田奉行に着任した大岡忠相は、問題の場所自らの足で検分して、紀州領内に入り込んだところにも杭を打ち、境界を明確にした。
 権威に屈することなく公正な判定を下す態度は、紀州藩主に好感を持たれることになった、という話。 この紀州藩主が、のちの第八代将軍・徳川吉宗だった。 以後、吉宗の片腕として欠かせない人物となる。
 「暴れん坊将軍」では北町奉行の出番はあまりないのは謎であるが、南町を贔屓にしていたと仮定する。兄弟のように感じていそうだし。 主従というより親友みたいな関係みたいに見えるのは、「暴れん坊将軍」ならではの醍醐味だろう。


 町火消しは、隅田川以西に「いろは48組」、隅田川以東に「南北中16組」と配置された。 辰五郎を筆頭に、活躍している「め組」は、いろは組のひとつである。 火のない時には何もやることのないやつらだから、いつも「め組」でゴロゴロしている。 (本当は忙しい。仕事がない時は、裏の世界での雑用やらなにやらあったみたいです。) 劇中では、時には、怠け者のようにも見えるし、モテるやつが少ないみたいだが、ほんとはモテル。 「火消し」ってやつは、かなりのモテモテなのだ。
 当時の消防活動は、今のように水で火を消すという方式ではなく、破壊消防である! 火の手が迫る風下の建物に飛び込んで、速攻で建物を破壊して撤去することで延焼を食い止める! まさに命がけだ。
 「鳶口」を使って瞬時に建造物を破壊する、その様は、男らしい。 その際、組の小頭が、「ここで火災を食い止めるぞ」という場所に纏を立てる。 建物の上に登って纏を振るアノ火消しは、小頭だったんですねぇ。 生命の危険が迫るような場合でも、小頭は纏を後ろに下げなかったと言います。 だから、傘下の仲間たちは、「小頭を殺してなるものか」と、命がけで破壊消防に挺身した。 これには、大名ではなく町人である、ということも多少影響していただろう。 「俺たちの町は、俺たちが守る」といった風に。
 命がけの勇敢さを持った男気溢れる町火消しは、粋なうえに体格もいい、と三拍子揃っているわけだから、 江戸中の女性たちの心をがっしりと掴んだだろう。
 め組の頭辰五郎は、時代はちょっと違うが、実在の人物。め組と相撲取りが喧嘩したことで有名。名は浜松町の「新門辰五郎」。 「暴れん坊将軍」では「花川戸辰五郎」となっているが、花川戸とは、地名、からきている線が高い。
 火事と喧嘩は江戸の華と言われている。 江戸時代はかなりの数の火事があった。しかし、悪いことばかりではなく、火事が起これば、建物を新築したり、と仕事が増える。 実際問題、大切な収入源であった。そして、街の活性化が促された。


 山田朝右衛門は実在の人物で、明治まで7代続いた首斬り役人。 「首切りの朝」といわれ、江戸の人々から忌み嫌われた。
 精神的に過酷な仕事は、誰もやりたがらなかったため、代々引き継がれたのであろう。 新宿通りを越えた平河町に山田朝右衛門の屋敷があった。 この朝右衛門家代々の副業が、薬の製造販売です。 首を刎ねた遺体の腹を割き、肝臓を切り取って持ち帰り、屋敷内で天日干しして、薬の原料にする。 「あさえむ丸」労咳(結核)の妙薬として高値の商いをしたとの事である。


 尾張七代藩主徳川宗春は、あまり史実に残っていない、謎なお人。
彼の著書に「倹約は大事だけれど、度が過ぎると民の不自由になる」と書かれているそうな。
納得・・・(笑)。
自由解放政策をすすめたのだが、度が過ぎたため、吉宗に怒られた(爆)。
街に出て、民と話すこともあったという。多分、生まれるタイミングが悪かったのだろう。気の毒なお人だ。


 この時代の靴は、もちろん草履。 靴ひもが切れるとよくないことが起きる、という言い伝えがあるが、発端は、江戸時代にあり。
 当時、葬式の際に履いた草履や草鞋は、埋葬が済むと帰り道に墓場の出口で捨ててくるものであった。 埋葬に使った履き物は穢れているから、捨てないといけないのである。 ところが、ただ捨てるだけでは駄目で、妖怪やもののけなどがそれを拾って履いてしまうと考えられた。 そこで、妖怪たちに履かれないように、鼻緒を切ってから捨てた。 「よくないことが起きないように鼻緒を切った」が「草履の鼻緒が切れるとよくないことが起きる」になったという。
 ついでに、馬にも靴があり、昔は、藁靴でした。 金物屋などで売られていたが、蹄鉄が使われるようになり廃れていったという。


 江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが「時の鐘」である。 昼と夜を分ける夜明けと日暮れをそれぞれ卯の正刻(夜明けが朝の6時)、酉の正刻(日暮れが夕方の6時)とした。 それから、昼夜を別々に6等分して、一辰刻を決めました。
 鐘が6回なれば「六つ時」7回ならば「七つ時」という言い方をする。
 午前6時が「明け六つ」、8時が「五つ時」、9時が「五つ半」、10時が「四つ時」、午後0時になると「午の刻(九つ時)」、2時は「八つ時(おやつの時間)」・・・となる。
 ちなみに、昼と夜の一辰刻は春と秋の一日だけ同じで、夏は昼の一辰刻が夜より長く、冬はその逆になる(夏は太陽がでている時間が長いから)。 夜間の時の鐘は、あまり正確ではなかった。 時に、火災の信号としても使用されたこともあるという。
 江戸中で9ケ所、配置されていた。 (日本橋石町、浅草寺、本所横川、芝切り通し、市ヶ谷八幡、目白不動、目黒円通寺、四谷天竜寺)


 それから「お金」について。米一石の価値が約1両と言われている。
 四角いお金で「一分銀」というのがあるが、1両の1/4は「一分(いちぶ)」といいます。 そのまた1/4は「一朱(いっしゅ)」といいます。 1文銭4000枚で「1両」です。1文銭が1000枚で「1貫」です。
   1両=4分=4000文   1分=4朱=1貫=1000文
 1文銭と10文銭の間に、「4文銭」というのがありました。 そのおかげで、江戸時代の物の値段は4の倍数になっているものが多い。 たとえば、「二八そば」が16文、「二六そば」が12文だとか・・・。
 江戸での金の支払いで特徴的なのは、「掛け売り(ツケ)」です。 馴染の店などでは、来店するたびにいちいち勘定を払ったりしません。 すべてツケであり、その年の暮れに一括して支払うのです。 また「心付け(チップ)」も江戸の金銭感覚特有のもので、頻繁に心付けの受渡しをしたそうだ。


 ちなみに、「暴れん坊将軍」で、考えてはならないのは、徳川吉宗の歳だ。
 史実では、将軍に就任したのは32歳の時である。 「暴れん坊将軍」は、将軍に就任してからまもなくのお話、と考えたい。 が、ストーリーによく絡んでくる小石川養生所が設置されたのは1722年でズバリ38歳以上。
 それじゃオヤジもいいところだ。その辺は各自、希望の年齢に設定しよう。

 こうなったら、どんどん史実をねじまげて、ありえねーよといえるくらい笑える娯楽時代劇にしてほしい。
 そんなわけで、めざせ吉宗とラブラブバカップル!ビバ、新之助!!
 ドリームの世界にうってつけなのだ!!
 ちなみに、この時代、不義は重罪。また、10両以上盗むと死刑です。
 離縁したい場合は、三行半を叩きつけるか、駆け込み寺を利用する。



刀 各部名称




江戸時代 用語いろいろ (いつか使おうと思っています)
お店いろいろ
米問屋米穀取引を行なった問屋。多くは株仲間を結び、特権的な富商だった。
魚問屋魚介類を扱う店。取引や価格の決定は市場で行う。
塩問屋塩取引を行なった問屋。
編み笠茶屋遊里に通う客に顔をかくすための編み笠を貸した茶屋。
一銭茶屋煎茶を一杯一銭(一文)で客に供した茶屋。
至り茶屋高級な茶屋。しゃれた茶屋。
掛け茶屋道端などに、よしずなどをかけて簡単に造った茶屋。腰掛け茶店。
桜の花の咲く頃、花見客を目当てに設ける掛け茶屋を桜茶屋という。
浮世風呂銭湯。お風呂屋。
浮世床男の髪結い床。床屋。
馬早飛脚馬を用いた早飛脚。江戸・大坂を三日半で連絡した。
遊び寺座敷を貸して宴会や遊興の行われる場所となった寺。世間寺。浮世寺。
油店結髪用の油や化粧品を売った店
尼だな日本橋室町一丁目付近。漆器問屋が多かった。
立て場街道筋で人足が駕籠や馬を止めて休息した所。
葉茶屋茶を売る店。水茶屋と区別していう。
料理茶屋色茶屋や水茶屋に対して、料理の提供を専業とした茶屋。
休み茶屋休憩所とした茶屋。
十組問屋塗物店組(塗物類)
内店組(絹布・太物・繰綿・小間物・雛人形)
通町組(小間物・太物・荒物・塗物・打物)
薬種店組(薬種類)
釘店組(釘・鉄・鍋物類)
綿店組(綿)
表店組(畳表・青筵)
河岸組(水油・繰綿)
紙店組(紙・蝋燭)
酒店組(酒類)
その他店たばこ茶店・せともの店・書物店、呉服店・両替屋・材木屋・金物屋

絹布絹糸で織った布。絹織物。
太物綿織物・麻織物など、太い糸の織物の総称。絹織物に対していう。
繰り綿綿繰り車にかけて種を取り去っただけで精製していない綿。
小間物日常用いるこまごましたもの。日用品・化粧品・装身具など。
荒物日常生活に使う雑多な品物。ざる・桶(おけ)・はたき・ほうきなど。雑貨。
塗物漆を塗って作ったものの総称。漆器。
打物打ちきたえて作った武器。刀剣・槍など。金属を打ちたたいて作った器具。
畳表藺草(いぐさ)の茎を織り合わせて作ったござで、畳の表面に縫いつけるもの。
青筵わら・藺(い)・竹などで編んだ敷物。特に、わらを編んで作ったもの。
金物鍋(なべ)や釜(かま)など比較的小さな金属製の器具の総称。


お仕事いろいろ
口入れ奉公先・縁談・金銭などの周旋をすること。また、それを業とする人。
口減らし人数を減らすこと。特に、子供を奉公に出したりして、生計の負担を減らすこと。
一季半季一年あるいは半年の短期間の契約で奉公すること。また、その人
居成り奉公人や遊女が年季を過ぎても続けて奉公すること。重年(ちようねん)。
大家貸し家の持ち主。家主。
店子(たなこ)家を借りている人。借家人
宛てがい扶持雇い主が雇い人にあてがって渡す扶持米。
歩き村・町で書状の伝達、触れ歩きなどをつとめた者。小使。定使。
御辞儀役藩主の乗る籠の四隅に位置取る身辺警護役。
いわば親衛隊長的なポストであり、通常その藩で特に選りすぐりの
手練れが拝命するポストである。
やし縁日など人の集まる所に露店を出し、興行や物売りを業としている人。
香具師。野師。弥四。てきや。
飴売り飴を売る行商人。
派手な服装で肩から飴箱をさげ、太鼓や鉦(かね)を鳴らした。飴屋。
薬売り薬の行商人。
定斎屋定斎(煎じ薬の一種)の行商人。夏の諸病に効果がある。
夏、薬箱を天秤でかつぎ、引き出しの環(わ)を鳴らして売り歩いた。
置き薬行商人が常備薬として家庭に預ける薬。
一定期間ののち、使った分の代金と引きかえに、薬を補充する。
三つ物屋古着の行商人。


遊郭いろいろ
湯女湯屋で客の垢を落とすのを業とした女。多く遊女を兼ねた。
揚屋太夫・格子など上級の遊女を呼んで遊ぶ家。
いろは茶屋水茶屋。岡場所の一。もしくは、大坂の道頓堀にある芝居茶屋。
出合い茶屋男女の逢い引きに用いた茶屋。待ち合い茶屋。
裏茶屋遊里の裏通りにあった茶屋。隠れ遊びの場となった。
陰間茶屋陰間を置いて男色を売った茶屋。野郎茶屋。男色楼。子供茶屋。
暗者女暗屋(くらや、隠れて売春婦をおく下級の娼家)で売春した私娼。くらもの。
板頭深川・品川などの岡場所で最も多額の揚げ代をかせぐ遊女。御職女郎。
鐘四つ吉原などの遊郭の、営業終了の定時刻。午後一〇時頃。
篝(かがり)火吉原遊郭のやりて婆の異名
水揚げ芸妓・娼妓がはじめて客と肉体関係を結ぶこと。
出女宿場の旅籠で客引きや客の世話をした女。
武左江戸の遊里で、田舎侍や無骨な武士をあざけっていう語。


法的いろいろ
上がり屋敷幕府・藩が罪人から没収した屋敷
上がり田地欠け落ち・逐電(ちくでん)し没収された農民の田地。
預かり銀貸し主の請求がありしだいいつでも返す約束で借りた金銭
預け銀請求した時にはいつでも返してもらう約束で貸した金銭
合わせ米正租に付加して徴収された一種の付加税。
運送中の減量を見込んで余分に量り入れた米。込米(こみまい)。
家数人馬改帳村ごとに家数・人馬数などを調査した帳簿。人畜(じんちく)改帳
遺跡帳跡目相続者を記録した、町年寄備え付けの帳簿。
無宿者一定の住居および正業を持たない人。戸籍のない人。帳外れ。
油証文子供が約束を破らない証に、指に髪の油をつけて柱などに押したこと。
あほう払い武士の刀をとりあげ、または丸裸にして追放する刑。


私生活いろいろ
朝顔合わせ種々の朝顔を持ち寄って品評する会
あずま上方(かみがた)からみて、江戸をさしていった語
東百官(あずまひゃっかん)子供の手習い本で、百種の人名を集めたもの
あとふだ次回興行の前売り券
路銀旅用の金。旅費。
三席漢詩と和歌と管弦の会合の席
名代ある人の代わりをつとめること。また、その人。


名物いろいろ
伊丹酒摂津(せつつ)(兵庫県)の伊丹で産した清酒。最上酒。伊丹諸白。
池田酒池田(大阪)で醸造される酒。
辛口で江戸時代伊丹(いたみ)酒と並んで最上等の酒とされた
立春朝搾り立春の日1日だけ限定発売されるお酒。
節分の夜から一晩中もろみを搾り続け、立春の早朝に搾りあがった
できたてほやほやの生原酒を、その日の夜に楽しむ。
伊勢天目伊勢参宮のみやげなどとされた天目茶碗。伊勢茶碗。
三輪そうめん日本最古の神社といわれる大神神社(奈良県)が発祥の地。
ニシン・数の子北海道の名産品。
金平糖砂糖菓子。
有平糖白砂糖と水飴を煮て練り棒状とし、花・鳥・魚の形で色をつけた菓子。
晒よし飴乾燥期でないと作れない11月〜4月のみの飴。宮城県仙台市「玉澤」。
飴の糸が細かく、口中にするとさっと溶けて淡泊な甘さが品がよい。
わらび餅蕨粉にもち米の粉を加えて作った餅。蜜と黄な粉をつけて食べる。
春の食べ物。奈良のおやつ。
幾代餅一つ五文の餅。両国橋「小松屋」の江戸名物菓子。
焼いた丸い切り餅に小豆餡をまぶしただけのもの。
美しい女房が評判になり、繁盛した。
赤福三重県伊勢市、赤福の名菓。お伊勢詣りの土産物として有名。
桜餅桜の葉で包んだ小豆餡入りの餅。江戸名物。
享保2年(1717)、長命寺に住み込んだ門番山本新六が発案。
花見客におお受け。東京向島山本屋の「長命寺桜餅」
椿餅餅米の粉に甘葛(あまずら)をかけて丸く固め、椿の葉二枚で包んだ餅。
五平餅御幣餅ともいう。餅を団子にし、串にさして焼いたもの。
白玉白玉粉で作った団子。夏に食す。
汁粉に入れたり、冷たい砂糖水に入れたりして食べる。
十団子駿河の宇津谷(うつのや)峠の麓の茶屋で売った名物団子。
白・赤・黄の三色の小さな団子を十個ずつ、串刺し麻糸通しで売った。
煎餅せんべい。干菓子の一種。
紅梅焼梅花の形をした小型の煎餅。東京浅草「梅林堂」の江戸名物菓子。
1716〜1736浅草観音堂境内に名木の紅梅があり、木の陰で焼いて売った。
名木にあやかって紅梅焼と呼ばれるようになる。
羊羹餡(あん)を用いた、代表的な和菓子。
蒸し羊羹の室町時代。後期から寒天を用いて練り羊羹になった。
江戸の「鈴木越後」「金沢丹後」「船橋屋織江」高級羊羹店が繁盛した。
金鍔水でこねた小麦粉で餡を包み、鉄板上で鍔の形や長方形に焼いた和菓子
当時は、銀鍔と言って、餡を団子にして粉をまぶし焼き上げた物。
どら焼き江戸時代初期、麹町で大木元佐治兵衛が「助惣焼」を始めた。
当時は四角できんつばと同じものであったらしい。
カステラカステイラと呼ぶ。スペイン人のもたらした菓子。長崎が有名。
土産団子葬送の際、墓に持って行く団子。杉団子。


有名人
雲霧仁左衛門盗賊。
雲霧五人男(仁左衛門・因果小僧六之助・素走り熊五郎・木鼠吉五郎・おさらば伝次)の頭目として活動したという
紀伊国屋 文左衛門商人。通称、紀文。紀伊の人。
紀州みかんを江戸に運ぶ商売で利を得、のち材木商として江戸に進出。老中柳沢吉保に取り入り、幕府の御用達商人となる。中でも上野寛永寺の用材調達で投機的に巨万の富を得た。
奈良屋 茂左衛門商人。
深川の材木商。通称、奈良茂。
車力の子から立身し、日光東照宮の修営で富を築いた。

室 鳩巣
(むろ きゅうそう)
儒者。
新井白石と並ぶ、木下門下の俊才。
吉宗の享保の改革を補佐。
新井 白石儒者。
吉宗の将軍就任にともない失脚。
神尾 春央
(かんお はるひで)
幕臣。勘定奉行。
老中松平乗邑の下で年貢増徴政策を推進し、享保の改革の一端を担う。隠田摘発や有毛検見取法を各地で実施し、年貢増収に成功した。
「胡麻と百姓は絞れば絞る程出るもの」百姓を胡麻に例え、年貢はいくらでも厳しくできると考えていたとされる。
野呂 元丈
(のろ げんじょう)
本草学者。伊勢国生まれ。
京都で中国本草学の大家稲生若水に本草学を学ぶ。
1740年、吉宗の命で西洋本草学を学び、青木昆陽とともにオランダ書籍の解読をして蘭学興隆の基礎を築く。
青木 昆陽
(あおき こんよう)
蘭学者。日本橋の魚問屋に生まれた。
伊藤東涯に学び、1721年、江戸で塾を開設。
日本で初めて栽培に成功したサツマイモは全国に広がり、日本を飢餓から救った。「芋神さま」「甘藷先生」と呼ばれる。




江戸時代 地域地図

北海道は未開拓地。幕末になってから多くの人が移り住んだ。


参考文献(ネット版)
暴れん坊将軍公式ページ
松平健ナレッジスペース
裏辺研究所の歴史研究所
学研学習辞典データベース
武士の時代
おしゃべりな部屋(白地図)
幕末千夜一夜(藩地図)
水戸黄門(TBS)
古典落語
藤商会闘争(争議外伝)
goo辞書(大辞林 第二版)
全国名菓探訪(お菓子の歴史)
東京油問屋市場(十組問屋)
妖々日本史(享保年間、宗春)
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