暴れん坊将軍 主題歌「 utopia 」 |
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邂逅編 主題歌「 I Want to Live 」 只今、執筆中・・・
曲 提供:Satoru Kanatani氏
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時代劇いろいろ |
「水戸黄門」「鬼平犯科帳」「暴れん坊将軍」「銭形平次」「遠山の金さん」は有名ドコロだろう これを五代時代劇と呼ぶ(今、つけた) れもんは時代劇ファンである。 ぼーっと見ているだけで、まるで洗脳されているかのように、名台詞が知らない間に頭に入っていく。 不思議だ・・・(悦) 最近は時代劇も進化しはじめ、TV時代劇はどれも似たようなカメラワークだったが、最近の「剣客商売」「八丁堀の七人」の映像は、映画みたいにとても綺麗だ。 魅力的なので、老若男女問わず、普及するだろう とにかく、れもんはドリーマーなので、一番好きな「暴れん坊将軍」にトライしてみたい。 特に、加納五郎左衛門にジジイ萌え(笑) だがあまりにジイちゃんなので、狙いは新之助こと吉宗にしておくのが無難。 巷でよく見かける「新撰組」はまたの機会にやりたいが、時代背景のチェックだけで果てるだろう。 暴れん坊将軍の設定だけで、疲れてるのだから、無謀な挑戦だ。 あぁ・・・いつかは・・・、と期待だけ胸膨らませる乙女心ってやつである。 |
登場人物(シリーズごちゃまぜにして、設定を推測) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
加納五郎左衛門が一番好きです。 役者効果ってやつなのかな・・・。 |
時代背景 |
徳川吉宗 生没年 1684−1751。今から約300年ほど前の江戸時代のお話。 徳川御三家といえば、尾張、紀伊、水戸、である。吉宗は紀伊家出身。 暴れん坊将軍こと徳川吉宗は、貞享元年(1684)十月、徳川御三家のひとつ、紀州藩の第二代藩主徳川光貞の四男として生まれる。 母はお由利の方で、若山吹上屋敷で生まれてすぐ、岡の宮(刺田比古神社)の神主の手を経て、家臣である加納五郎左衛門の屋敷に届けられ、5歳まで育てられる。 元服時は得田新之助という名前。幼名時は源六。 12才で初めて江戸へ行き、将軍綱吉から、越前(福井県)に三万石の領地を与えられる。 三人の兄が次々早死にし、若干二一才で第五代藩主となります。 当時、藩には10万両ほどの借金があり、自ら生活をきりつめる倹約政策で財政を立て直した。 その政治的手腕が認められた彼は、7代将軍の家継が幼少で死んだあとをうけて、1716年に江戸幕府第8代征夷大将軍に就任することになる。 加納久通・有馬氏倫らを、新設した側御用取次役(実質的に側用人)に任命。 また、徳川八代将軍として享保の改革を断行。 米将軍とも呼ばれた。 身長は六尺(約180センチ)で鷹狩りが好みで、酒も本数を決めて嗜んだ。 家康の命日にちなんで毎年1回江戸城で御城碁があったというから、多分、囲碁が打てるはず。 徳川家康が草津の湯を運んで入浴したいと希望したところから始まり、吉宗なども、今の湯畑にある「お汲み上げ湯の碑」あたりから湯を汲み上げ江戸まで運んだという。草津の名前が全国的に知れ渡った。 将軍に就任したとき、またもや財政はかなり厳しかったらしい。 幼少時を質素に暮らしたからか、将軍になってもその姿勢は反映され、自ら倹約に努めた。 大奥女中も美女50人を差し出させ、美女であれば嫁のもらい手もあろうと皆に暇をとらせたという。今でいうリストラ。 享保の改革(倹約令、年貢増徴、目安箱、公事方御定書、米価の安定)によって、徐々に好転した。 その間、江戸の人口が100万近くになっていたため、「いろは四十七組」の町火消を設置し、防火対策をする。 また目安箱の訴えによって、小石川養生所を設置し、極貧の病人を収容し無料で治療を行った。 小石川にしたのは、麻生薬草園を小石川に移したからだろう。 大岡越前守忠相は、山田町奉行(伊勢・志摩)時代に吉宗 に見込まれ、江戸に戻り御普請奉行を務めたあと、41歳で江戸町奉行に任命された。 この年、吉宗が将軍の座についてから1年ほどである。将軍になる前から懇意な仲だったと考えていいだろう。 吉宗と大岡忠相にはこんなエピソードがある。 当時、山田奉行所の治める伊勢の国と紀州藩とは、宮川を境として接していた。 そのため、境界をめぐる争いが頻繁に起こっていたらしい。 代々の奉行は徳川御三家の一つである紀州藩に遠慮して、明確な判定を下さなかった。つまり見て見ぬ振りしていた。 そこに第18代の山田奉行に着任した大岡忠相は、問題の場所自らの足で検分して、紀州領内に入り込んだところにも杭を打ち、境界を明確にした。 権威に屈することなく公正な判定を下す態度は、紀州藩主に好感を持たれることになった、という話。 この紀州藩主が、のちの第八代将軍・徳川吉宗だった。 以後、吉宗の片腕として欠かせない人物となる。 「暴れん坊将軍」では北町奉行の出番はあまりないのは謎であるが、南町を贔屓にしていたと仮定する。兄弟のように感じていそうだし。 主従というより親友みたいな関係みたいに見えるのは、「暴れん坊将軍」ならではの醍醐味だろう。 町火消しは、隅田川以西に「いろは48組」、隅田川以東に「南北中16組」と配置された。 辰五郎を筆頭に、活躍している「め組」は、いろは組のひとつである。 火のない時には何もやることのないやつらだから、いつも「め組」でゴロゴロしている。 (本当は忙しい。仕事がない時は、裏の世界での雑用やらなにやらあったみたいです。) 劇中では、時には、怠け者のようにも見えるし、モテるやつが少ないみたいだが、ほんとはモテル。 「火消し」ってやつは、かなりのモテモテなのだ。 当時の消防活動は、今のように水で火を消すという方式ではなく、破壊消防である! 火の手が迫る風下の建物に飛び込んで、速攻で建物を破壊して撤去することで延焼を食い止める! まさに命がけだ。 「鳶口」を使って瞬時に建造物を破壊する、その様は、男らしい。 その際、組の小頭が、「ここで火災を食い止めるぞ」という場所に纏を立てる。 建物の上に登って纏を振るアノ火消しは、小頭だったんですねぇ。 生命の危険が迫るような場合でも、小頭は纏を後ろに下げなかったと言います。 だから、傘下の仲間たちは、「小頭を殺してなるものか」と、命がけで破壊消防に挺身した。 これには、大名ではなく町人である、ということも多少影響していただろう。 「俺たちの町は、俺たちが守る」といった風に。 命がけの勇敢さを持った男気溢れる町火消しは、粋なうえに体格もいい、と三拍子揃っているわけだから、 江戸中の女性たちの心をがっしりと掴んだだろう。 め組の頭辰五郎は、時代はちょっと違うが、実在の人物。め組と相撲取りが喧嘩したことで有名。名は浜松町の「新門辰五郎」。 「暴れん坊将軍」では「花川戸辰五郎」となっているが、花川戸とは、地名、からきている線が高い。 火事と喧嘩は江戸の華と言われている。 江戸時代はかなりの数の火事があった。しかし、悪いことばかりではなく、火事が起これば、建物を新築したり、と仕事が増える。 実際問題、大切な収入源であった。そして、街の活性化が促された。 山田朝右衛門は実在の人物で、明治まで7代続いた首斬り役人。 「首切りの朝」といわれ、江戸の人々から忌み嫌われた。 精神的に過酷な仕事は、誰もやりたがらなかったため、代々引き継がれたのであろう。 新宿通りを越えた平河町に山田朝右衛門の屋敷があった。 この朝右衛門家代々の副業が、薬の製造販売です。 首を刎ねた遺体の腹を割き、肝臓を切り取って持ち帰り、屋敷内で天日干しして、薬の原料にする。 「あさえむ丸」労咳(結核)の妙薬として高値の商いをしたとの事である。 尾張七代藩主徳川宗春は、あまり史実に残っていない、謎なお人。 彼の著書に「倹約は大事だけれど、度が過ぎると民の不自由になる」と書かれているそうな。 納得・・・(笑)。 自由解放政策をすすめたのだが、度が過ぎたため、吉宗に怒られた(爆)。 街に出て、民と話すこともあったという。多分、生まれるタイミングが悪かったのだろう。気の毒なお人だ。 この時代の靴は、もちろん草履。 靴ひもが切れるとよくないことが起きる、という言い伝えがあるが、発端は、江戸時代にあり。 当時、葬式の際に履いた草履や草鞋は、埋葬が済むと帰り道に墓場の出口で捨ててくるものであった。 埋葬に使った履き物は穢れているから、捨てないといけないのである。 ところが、ただ捨てるだけでは駄目で、妖怪やもののけなどがそれを拾って履いてしまうと考えられた。 そこで、妖怪たちに履かれないように、鼻緒を切ってから捨てた。 「よくないことが起きないように鼻緒を切った」が「草履の鼻緒が切れるとよくないことが起きる」になったという。 ついでに、馬にも靴があり、昔は、藁靴でした。 金物屋などで売られていたが、蹄鉄が使われるようになり廃れていったという。 江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが「時の鐘」である。 昼と夜を分ける夜明けと日暮れをそれぞれ卯の正刻(夜明けが朝の6時)、酉の正刻(日暮れが夕方の6時)とした。 それから、昼夜を別々に6等分して、一辰刻を決めました。 鐘が6回なれば「六つ時」7回ならば「七つ時」という言い方をする。 午前6時が「明け六つ」、8時が「五つ時」、9時が「五つ半」、10時が「四つ時」、午後0時になると「午の刻(九つ時)」、2時は「八つ時(おやつの時間)」・・・となる。 ちなみに、昼と夜の一辰刻は春と秋の一日だけ同じで、夏は昼の一辰刻が夜より長く、冬はその逆になる(夏は太陽がでている時間が長いから)。 夜間の時の鐘は、あまり正確ではなかった。 時に、火災の信号としても使用されたこともあるという。 江戸中で9ケ所、配置されていた。 (日本橋石町、浅草寺、本所横川、芝切り通し、市ヶ谷八幡、目白不動、目黒円通寺、四谷天竜寺) それから「お金」について。米一石の価値が約1両と言われている。 四角いお金で「一分銀」というのがあるが、1両の1/4は「一分(いちぶ)」といいます。 そのまた1/4は「一朱(いっしゅ)」といいます。 1文銭4000枚で「1両」です。1文銭が1000枚で「1貫」です。 1両=4分=4000文 1分=4朱=1貫=1000文 1文銭と10文銭の間に、「4文銭」というのがありました。 そのおかげで、江戸時代の物の値段は4の倍数になっているものが多い。 たとえば、「二八そば」が16文、「二六そば」が12文だとか・・・。 江戸での金の支払いで特徴的なのは、「掛け売り(ツケ)」です。 馴染の店などでは、来店するたびにいちいち勘定を払ったりしません。 すべてツケであり、その年の暮れに一括して支払うのです。 また「心付け(チップ)」も江戸の金銭感覚特有のもので、頻繁に心付けの受渡しをしたそうだ。 ちなみに、「暴れん坊将軍」で、考えてはならないのは、徳川吉宗の歳だ。 史実では、将軍に就任したのは32歳の時である。 「暴れん坊将軍」は、将軍に就任してからまもなくのお話、と考えたい。 が、ストーリーによく絡んでくる小石川養生所が設置されたのは1722年でズバリ38歳以上。 それじゃオヤジもいいところだ。その辺は各自、希望の年齢に設定しよう。 こうなったら、どんどん史実をねじまげて、ありえねーよといえるくらい笑える娯楽時代劇にしてほしい。 そんなわけで、めざせ吉宗とラブラブバカップル!ビバ、新之助!! ドリームの世界にうってつけなのだ!! ちなみに、この時代、不義は重罪。また、10両以上盗むと死刑です。 離縁したい場合は、三行半を叩きつけるか、駆け込み寺を利用する。 刀 各部名称 |
江戸時代 用語いろいろ (いつか使おうと思っています) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お店いろいろ
お仕事いろいろ
遊郭いろいろ
法的いろいろ
私生活いろいろ
名物いろいろ
有名人
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江戸時代 地域地図 |
北海道は未開拓地。幕末になってから多くの人が移り住んだ。 |
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